« 2009年2月 | トップページ | 2009年4月 »

2009年3月

2009年3月29日 (日)

夏目漱石は精神異常であったか?⑯

・・・どうやら、夏目漱石の精神的な異常は、周期的なもので、また家族や女中さん以外には、正常な人だった・・・というのが結論のようでございます。この結論に関しましては、また後ほど述べるといたしましょう。今回は夏目漱石のご性格のうち、面白いものを、他人の書いたものから2,3見てみましょう。

まずは芥川龍之介の書いたものから・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「先生の書斎は先生自慢の一つだつたに拘らず、こんなことがあつた。――ある時、アメリカの女(もう少し尊敬して言へば、御婦人)が二人連名で、先生へ訪問を申し込んだことがある。その女と言ふのは観光団か何かで日本に来たアメリカの文学――文学者とまで行かなくとも詩など好んで読んでゐる女らしく、勿論英語で申込の手紙を先生に寄せたのです。それに対し先生は訪問を断られた。断りの手紙は矢張り英文で認めたのですが小説を一篇書くよりもその方が骨が折れたと申されました。……アメリカの女の訪問を断られたことは如何にも不審に思はれたので、おそるおそる先生に「どうしてまた、アメリカの女が折角会ひたいといふのを、断られたんです」ときくと「夏目漱石ともあらうものが、こんなうすきたない書斎で鼠の小便の下に住んでゐる所を、あいつ等に見せられるか、アメリカに帰つて日本の文学者なんて実に悲惨なものだなんと吹聴されて見ろ、日本の国辱だ」といかつい顔をしました。先生は実にかうした一面が多かつた人であります」

                     芥川龍之介「漱石先生の話」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

次に、漱石の創作態度について・・・・これは俳句仲間の高浜虚子が書いております。以下の文章は、「吾輩は猫である」を高浜虚子の主催する『ホトトギス』の載せたときの思い出です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「それからこの一篇の標題がまだきめてなかつた。「猫伝」としやうか或は冒頭の一句の「吾輩は猫である」といふのをとつてそのまゝ標題としようかどうしたものであらうと私に相談をした。私は無論「吾輩は猫である」の方を取ると云つた。それから漱石に所々に冗文句と思はるゝものがあるのを削りとつても好いかと念を押した。漱石はどうでもしてくれとの事であつた。その席上でも一二の文句は削り去ることを勧めた。漱石は筆を執つてそこを削り去つたと記憶してゐる。
 後の漱石は私がさう云ふことを云つても軽々しくは肯じなかつたであらう。殊に虞美人草を書くやうになつてから後の漱石は自分の原稿を消して書きなほすといふやうなこともしなかつた。一旦筆を下した以上は丁度相撲がとり組んだものの様で、もう後には引けぬと云つてゐた。自分でも直すことを肯んじぬ位であるから、まして他人の言を聞いて抹殺するとか改削するとかいふやうなことは容易に承知しなかつたであらう。が始めて猫を書いた時分の漱石はまだそれほどに自信がなかつたので容易に私の云ふ事を聞いた」

                      高浜虚子「「猫」の頃」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

どうやら、漱石は「ベスト・ガンコ賞」をもらえるほどの、ガンコ一徹なご性格だったようでございます。でも、漱石は困っている人には、暖かい手を差し伸べる方でもありました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年3月27日 (金)

夏目漱石は精神異常であったか?⑮

鏡子夫人と言えば、本名は実はキヨ。このキヨにご記憶ありませんか?・・・そう。『坊ちゃん』で主人公を精神的に助けているのが、キヨなのです。そして『道草』では鏡子は『お住(おすみ)』として登場します。この名前、どこか漱石の愛情が感じられませんか?いかにも「一家の柱」という気が、私にはします。

「案外、鏡子夫人と言いますのは、大人物かもしれない」・・・私はこう思っております。鏡子夫人のお父様は貴族院書記官長中根重一貴族院議員になる可能性もあったのですが、運が味方せず、なれなかったということです。鏡子はこの父親を尊敬していたとか。しかし中根重一は相場で失敗し、実家は大いに傾きます。『道草』によれば、漱石の古いコートをありがたがって着ていたとか。かなりの落ちぶれ様ですね。漱石にお金の無心もしていたようです。鏡子夫人はこれについて「役人は在職中には、相場師も、儲けさせてくれるのよ。でも職を辞した途端、相手をしてくれなくなるの」と言っています。世間の裏をわかっていたようですね。頭のいい女性だったのでしょう。

最後に、鏡子夫人の履歴を簡単に記しておきます。

旧姓は中根キヨ。1877明治10年)721 生まれで 1963昭和38年)41885歳で亡くなられております。貴族院書記官長中根重一・豁子(かつこ)夫妻の長女。広島県出身。漱石との間に、25女(筆子、恒子、栄子、愛子、純一伸六、ひな子)をもうけました。

さて、漱石が神経的におかしくなった原因に、私は自分の過去の作品への重荷もあると思っております。作家と言いますのは、自分の作品に愛情を持つと同時に、憎しみを持つ場合もあります。憎しみは、そのまま自分を責め苛む矢となって、心身を蝕む場合もございます。作家に自殺者が多いのは、ここにも原因があるのではないでしょうか。これについて、漱石はこう述べています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「君。なんだね。ときどき、自分のふるいものを読みかえすと大変ためになるものだね。このあいだ、何の気なしに読みかえして見て、だい分、読んで見たが、いま読むと、自分のいいとこ、悪いとこがはっきりとわかるね。」
「先生はどれが、一番いいとお思いになりました。」
「坊っちゃんなんか、一ばん気持よく読めたね。」
「吾輩は猫はどうです。」
「あれも悪くはないよ。」
「草枕は、いかがでした。」
「草枕かい。あれには、辟易したね.第一、あの文章に。」
「例の智に働けば角が立つ。情に棹させば流されるというやつですか。」
「ううむ。読んでいくうちに背中の真中がへんになって来て、ものの五枚とは読めなかったね。」
 みんなが思わずどっと笑った。
「虞美人草はどうです。」
「虞美人草はまだ読みかえしてみないが、あれも駄目だろう。」

            江口渙「漱石山房夜話」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この会話は、漱石がいかに自分に正直な人間であったかの証明になるでしょう。

漱石は、ガンコで意地っ張りな人でしたが、自分の欠点については客観的な観点から自省できる人であったということができるでしょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年3月25日 (水)

夏目漱石は精神異常であったか?⑭

今回は漱石と妻鏡子の関係をざっと見てみましょう。

漱石の妻鏡子は一度入水自殺を図っているようです。熊本にいるとき、初子の流産が元で、精神的に不安定になったのでした。このときの記述は、道草にも書かれていて、夜は夫婦が互いに手首を紐で縛って寝た・・・などと書かれております。

この頃は特に鏡子はときどきヒステリーを起こしたようで、その際は仰向けになって動けなくなり、幻想などの精神障害も起こしているようです。

ただし、もちろんそういうことは稀であり、普段の鏡子は、自由な愛する性格を持った「ゴーイング・マイウェイ」的な女性だったようです。また、かなり母性愛にも富んでいました。こういう妻を漱石はやや(かなり?)もてあましていたのですが、しかし最終的には、彼女を愛していた・・・私はこう見ています。

「吾輩は猫である」や「道草」における鏡子を見てみますと、私は彼女がまるで現在に生きている女性のようにも感じられます。鏡子の方が10歳年下なのですが、夫に対してきちんと自己主張をし、ユーモアのセンスも十分あります。話も論理的です。漱石に全然負けていないのです。でも「他人の話を聞かない」ことに関しては、漱石の方が上かもしれませんね。ただし、漱石は権威的なものに対して『我を張る』タイプであり、弟子たちや筋道の通ったことに関しては、優しくものわかりのいい方でした。『坊ちゃん』の主人公は、むやみと権威に反発しますが、ああいうのが漱石の器質の本質の一つなのでしょう。

・・・こうしてみると面白いですね。

どちらも意地っ張り同士。でももちろん収入は夫が得て、妻が財布を握っている・・・夫はいろいろ言うけれど、妻は半分くらいしか、言うことを聞いてくれない・・・でも、どこかで夫婦は心が繋がっている・・・

結果的に漱石は49歳で病死。鏡子は85歳まで生きているのですから、この夫婦の勝負、本当のところは、妻のワンサイド勝ち・・・というところかもしれませんね。

ただ、鏡子夫人の性格から見ますと、漱石の弟子たちに対しては、やや強圧的な態度に出ることもありえます(ただしこれは多分に漱石がそうさせたとも言えますが)。また弟子たちに金銭的援助をして精神的に優位に立っていたという事実もあるでしょう。それで夫人に頭の上がらない弟子たちが、「悪妻」という風評を広めたのではないでしょうか?・・・そんな気もいたします。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年3月23日 (月)

夏目漱石は精神異常であったか?⑬

鏡子夫人によりますと、漱石は10年周期で、精神に大きな異常を発症していたということです。前回は大正2年の『行人』の執筆時の異常について述べました。その10年前と言いますと、日露戦争の頃であり、これについて、長女の筆子は以下のように述べております。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

わたくしが六つのとき、ちょうど日露戦争の時でございましたね。悪いことも何もしないのに、いきなり『筆子を呼んでこい』と、女中にいいますでしょう。わたくしが何の用かと思ってまいりますと机の前にすわらせるだけで、こうでございますの。(ゲンコツでひたいを突いて)ゴツーンと、ひっくり返してそれで知らーん顔してにらんでいる。母もとってもかわいそうでした。そんときはまだ、ちょうど三番目の妹が生まれたばかりで、まだ四番目の妹が生まれていない時ぐらいでございますね。母がしょっちゅう書斎に呼ばれていっては、髪振り乱して泣きながら廊下を走って出てくるのをわたくしは覚えております」

               『銀座百点』 座談会 「夏目漱石の長女」 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

漱石の幻聴について、鏡子夫人は以下のように述べています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「私などが言わない言葉が耳に聞こえて、それが古いこと新しいことといろいろに連絡して、幻となって眼の前に現われるものらしく、それにどう備えていいのかこっちには見当がつきません。そうなりだすと何もかもみんな悪意に取りだすので、私のやることなすことが、話せば話したで、黙っていれば黙っているで、何もかも夏目をいじめ苦しめるためにやっていると、こう感じるらしいのです」

                       夏目鏡子「漱石の思ひ出」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

二度目の危機のときには、ちょっとした事件が起きています。すなわち漱石が二人の女中に暴力を振るい、それに憤慨して女中たちが出て行ってしまったということでした。

この事件について、鏡子夫人は以下のように述べています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「それを見ていたのが長女の筆子で、いくら父でもあんまり無法なことをすると悲憤の涙にくれておりますると、やがて夏目が出て来て、女中は出て行ったか、けしからぬやつだと言うので、そこで筆子が憤然とそれは出ていきますとも、あんなことなさるんですものと、女中の肩をもってしまったのです。さあ、そうなるとたまりません。なんだ、この生意気なやつめ、父に口答えするとはというわけで、ポカッと来ます。私が帰って参りますと、女中はいず、筆子は口惜しがって泣いている。夏目は夏目であのやつけしからぬやつだと女中はいないので、筆子一人を目の仇にしてしきりと憤慨しております。今にも刃物沙汰でもしかねまじい形相なので、これは危ないとみてとって、目の前にいなければそれまでのことですから、矢来の兄さんのところへ逃がしてやりました」

                      夏目鏡子「漱石の思ひ出」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「刃傷沙汰」と書いてありますから、漱石の怒りはかなりのものだったのでしょう。でも、逆に見れば、精神も異常なときでも漱石は小説の執筆はしているのですから、漱石の精神異常は、家族の者以外には、被害はなかったということになります。また、小説を書いていたのも、家族を養うため・・・となれば、精神の異常を過大視するのも、道義的にはあまりしてはいけないことだと思います。ただ人間の精神構造とか心理学の面では、非常に興味ある事例です。ですから私はこの文章を書いているわけです。決して、漱石を貶めているわけではございません。家族の者に対して、精神の異常さがあったとしても、漱石の偉大さは十分に評価され続けるべきでしょう。ただし家族の多くの方たちが、あまり漱石に親しみを感じていなかったという事実は看過すべきではないと思います。

この次は、漱石と鏡子夫人の関係について見てみましょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年3月21日 (土)

夏目漱石は精神異常であったか?⑫

今回は漱石が心身ともに最も不安定だった時期の一つについて記します。それは大正2年、『行人』を執筆していた年の初めのことです。この年、漱石は精神的には幻聴に襲われ、肉体的には胃潰瘍のために、新聞の連載を長期間休止せざるをえませんでした。休止は3月~9月ですから、かなりの大病だったと申せましょう。

例によって鏡子夫人の『漱石の思ひ出』から見てみましょう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「何でもお正月の二日か三日のことです。どうも女中が変だとか何とかひとり語   を言っておりましたが、やがて女中に向かって、いきなり木に竹をついだように、そんなことは言わないでくれとこう申します。しかし、女中はべつに何も言わないのですから、怪訝な顔をして、何も申しませんでございますがと答えると、怖いいやな顔をして黙ってしまいます。後で私に、『あんなことを言わせちゃ困るよ』とたいそう不興気にたしなめておりました。(中略)
 それでも子供のことですから、何かの拍子にそんなことを忘れてしまってげらげら笑ったりします。すると自分のことを笑ってでもいると思うのですか、大きな声でどなったり、呼びつけて叱ったりするのです。そうして尻尾はいつも私に参ります。子供たちがポンポンピアノを叩く。それがまた気に食わないで一喝を食らわします。こうなってくると家じゅうは急にひっそりかんとして、まったく虎の尾を踏む心地と申しますか、みんな爪先立てて足音をぬすんで歩くのです。ちょっとでも音を立てようものなら、コラッとやられてしまいますというぐあいです」

                      夏目鏡子『漱石の思ひ出』

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

他の部分の記述から見ましても、漱石に幻聴が聞こえていたことは、おそらく間違いないでしょう。幻聴は、統合失調症(精神分裂病)の主な症状。とすれば、やはり正常な状態ではなかったと申せましょう。しかし、漱石の場合は、幻聴が聞こえながらも、仕事をこなし、家族や女中さん以外の人には正常に接していたようですので、「完全な精神異常」と考えるのは、やはりおかしいと言わざるを得ません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年3月20日 (金)

夏目漱石は精神異常であったか?⑪

今回は漱石と実父夏目小兵衛直克との関係を簡単に見ておきましょう。ズバリ申しましょう。漱石は実父に親しみを感じていなかったようです。考えてみれば、それも当然かもしれません。二度も里子やら養子やらに出されているわけですから、いい感情は持たないのも頷けます。

しかし実家に戻ったとき、もしも実父の「いたわりの言動」があれば、少年漱石も救われたことでしょう。しかし、実際には、あまりそういうことはなかったようです。『道草』の中では、そのときの様子が以下のように、つらい思い出として書かれています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「彼は始めて新しい世界に臨む人の鋭い眼をもって、実家に引き取られた遠い昔を鮮明に眺めた。

実家の父に取っての健三は、小さな一個の邪魔物であった。何しに斯んな出来損ひが舞い込んで来たかといふ顔付をした父は、殆んど子としての待遇を彼に与へなかった。今迄と打って変わった父の此態度が、生の父に対する健三の愛情を、根こそぎにして枯らしつくした。彼は養父母の手前始終自分に対してにこにこしていた父と、厄介物を背負ひ込んでからすぐ慳貪に調子を改めた父とを比較して一度は驚いた。次には愛想をつかした。然し彼はまだ悲観する事を知らなかった。発育に伴ふ彼の生気は、いくら抑え付けられても、下からむくむくと頭を擡げた。彼は遂に憂鬱にならずに済んだ」

                         夏目漱石『道草』

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

もちろん小説ですから、多少の脚色はあるでしょう。ですが、この中で書かれていることは、実父の、子供への冷たい態度です。

ただ、私もいろいろ人生を重ねてきて思うのですが、親子関係と言いますのは、相互関係でございまして、我が子と言えども、「何となくかわいげのない子」というものはいるようです。漱石は生来、自己依頼心の極めて強い子。とすれば、父親からすれば、「性格的に子供らしくない子」に見えたのかもしれません。漱石も実父の人のいいところは認めているわけで、それだけに父親に関しては、漱石の被害者意識が多少強すぎる・・・またその被害者意識をどこか心の奥で楽しんでいるようなところがあるように思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年3月19日 (木)

夏目漱石は精神異常であったか?⑩

前回と前々回は漱石の幼年時代の暗い影について話をいたしました。具体的には、里子に出されたとか、養子になったとかいう話でした。養子と言いますのは、正確には、2歳弱から8歳頃まで続きます。つまり8歳頃、実家に戻っております。ところが一旦戻っても、戸籍は養父母である塩原昌之助の籍のままでした。これが正式に夏目家の戸籍になるのは21歳のときでした。この時間差は実父と養父の対立によるものでした。

さて私は前回、『道草』の中で、漱石はかつての養父母のことを褒めてはいない・・・と書きました。ですがストレートに申しますと、表現上は「養父母をかなり嫌っていた」というのが真実です。

もちろん、『道草』は100%真実そのものではなく、脚色も多分にあるでしょうが、たとえば、養父母に関して、以下のように悪く書かれております。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「御常(養母のモデル)の手紙は其後ふっつり来なくなった。健三は安心した。然し何処かに心持ちの悪い所があった。彼は御常の世話を受けた昔を忘れる訳には行かなかった。同時に彼女を忌み嫌ふ念は昔の通り変わらなかった。要するに彼の御常に対する態度は、彼の島田(養父のモデル)に対する態度と同じ事であった。さうして島田に対するよりも一層嫌悪の念が激しかった。

               

                  夏目漱石『道草』

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

でも私はなぜ前回「褒めていない」という婉曲な表現を用いたのでしょうか?その理由は、「漱石が無心に来た養父母にお金を渡している」からです。しかも何度も渡しています・・・ということは、口先では嫌いと言いながら、心の深いところでは、漱石は養父母の存在をどこか強く認めるところもあったと思うのです。しかしまた他方、この『道草』は養父の存命中に書かれたということは、漱石の心の中には、自分の過去について踏ん切りをつけたいという気持ちが強かったのでしょうし、養父母に対する完全なる精神的な絶縁状でもあったと思います。

ところで私が思うに、なぜ養父母は、漱石に金の無心をしたのか?養父母は本当に悪い人間であったのか?・・・と考えますと、私にはそうではないという気がします。なぜなら養父母の対場からすれば、自分が養った子供がイギリスに留学し、大学で教えているとなれば、なんとかそのかつての養子と交流を持ちたいと思うのが、自然な感情でしょう。また養父母は以前、夏目家の書生であったり、夏目家の仕事をしていました。となれば、漱石は「お坊ちゃん」になるわけです。そういう普通の養父母ー養子とは違った複雑な関係があればこそ、養父母の漱石に対する一見異常な行動も理解できると思うのです。

ところで、漱石という人は一般に、「行動と心と言葉が層状になっている」のでありまして、言葉で言ったことがそのまま、彼の態度や内心の気持ちと一致しているかと思うと、また違うような感じがいたします。言葉で悪く言っても、内心や態度ではそれをフォローしているのでございます。これは妻鏡子に対しても同様のことが言えます。日記では妻の悪口をさんざん書いています。ですが、案外妻を深く認めているような記述が道草の随所に見られるのでございます。道草という小説そのものが、妻に対して捧げられたような感じもいたします

それが漱石の人間的な深みであり、また複雑さや立派さだと言うことができるでしょう。でもそういう深みや立派さがありながら、また同時に、たまに明らかに精神的に異常な行動を取るのでございました。それにつきましては次回以降にさらに見てまいりましょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年3月18日 (水)

夏目漱石は精神異常であったか?⑨

前回は、赤子の漱石が古物商に里子に出されたことを述べました。でも、それは「乳もらい」のようなもので、また実家に戻ります。その後、再度養子に出されます。その経緯は夏目鏡子は以下のように語っています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「けれどももともと家へは置いときたくない父の肚ですから、機会があれば他へ 養子にでもやろうとしていたものでしょう。そこへ折りよく養子の話が持ち上がりました。もらいたいというのは子供のいない塩原夫婦です。塩原昌之助というのは、もと夏目の家に書生をしていたものですが、この男みどころがあるというわけで、名主の株を買ってもらってだんだん取り立てられ、そのころでは浅草の戸長となっておりました。妻女のおやすさんというのも、たしか夏目の家に奉公していて、いっしょにしてもらったのだそうですが、夫婦の間に子供がありません。養子を物色していたところへ、第一候補に上がったのが、いらないもの扱いにされている夏目の末っ子です。恩人の子ではあり、男の子で願ったりかなったりで、こちらもやるくらいなら気心の知れたところがいいというので、とうとう塩原へ養子に行くことになりました。それが夏目が三歳の時です」

                           夏目鏡子「漱石の思ひ出」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この養父・塩原昌之助のことは『道草』の中で「島田平吉」として、重要な脇役として繁雑に登場します。ただし「お金の無心をする男」として、少なくとも好意的には書かれていません。養母・おやすも「お常」として登場します。この女性も、褒めては書かれてはいません。

つまり漱石にとって、養子時代の思い出は悪かったわけです。その思い出はトラウマのようなものとして残っていて、それが自分の子供を正常に愛せなかった理由の一つではないか・・・こう私は考えるわけです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年3月16日 (月)

夏目漱石は精神異常であったか?⑧

漱石は自分の子供とは、あまり相性が良かったとは言えないでしょう。その理由の一つとして、自らの幼年期の不幸が上げられると思われます。そう。漱石は、二度も里子または養子に出されているのです。

最初の里子は生まれてすぐのことでした。母親のお乳の出が悪かったため、古道具屋に乳をもらいに・・・という理由もあって里子に出されたのでした。その経緯は『漱石の思ひ出』の中で、このように記されております。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「ところが生まれはしたものの父の五十四歳かの時の年寄り子で、はたへ対してもみっともよくない上に、第一お乳がでない。そこで家へ女中に来ていたものの姉が、四谷で古道具屋をやっている。そこへ乳があるというので里子にやることになりました。ところがその古道具屋というのが、べつにれっきとした店をもってるほどのものではなく、毎夜お天気がいいと四谷の大通りへ夜店を張る大道商人だったのです。ある晩高田の姉さんが四谷の大通りを歩いていますと、大道の古道具屋のそばに、おはちいれにいれられた赤ん坊が、暗いランプに顔を照らし出されて、かわいらしく眠っております。近よってみると紛(まご)う方なくそれが先ごろ里子にやつた弟の「金ちゃん」なのです。何がなんでもおはちいれに入れられて大道の野天の下に寝せられているのはひどい。姉さんはむしょうにかわいそうになって、いきなり抱きかかえて家へ帰って参りました。が一時の気の毒さで連れ帰ってはみたものの、もともと家には乳がありません。そこでお乳欲しさに一晩じゅう泣きどおしに泣き明かす始末に、連れて来た姉さんは父からさんざん叱られて、しかたなしにまたその古道具屋へかえしてしまいました。こうして乳離れのするまで古道具屋に預けておかれました。」

                       夏目鏡子『漱石の思い出』

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この話は当然、漱石自身も知っていたことでしょう。この話を聞いて漱石はどう思ったのでしょうか?・・・・哲学的に言えば「うすら寒い実存の危機」のようなものを感じたのではないでしょうか?大道の古道具屋の夜店・・・そこで寝入っている里子の自分・・・・私が想像するに、この体験の伝聞は漱石の心理に大きな影響を与えたのではないかと思います。そこで私はあえて、この体験を引用してみました。

その後、漱石は満2歳弱のころ、塩原昌之助夫妻の家に養子に出されます。ここでも漱石は、かなり異常な体験をします。これについては次回に述べたいと思います。

 

| | コメント (0)

2009年3月14日 (土)

夏目漱石は精神異常であったか?⑦

今回は、長女筆子の父親に関する感想を述べます。以下の文章は長女筆子の「夏目漱石の『猫』の娘」よりの一節です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「神経衰弱といえば、そのために父自身がどれ程悩み、家族全体がどれ程、脅かされ、苦しめられたか、それは計り知れないことでございました。(当時精神病(狂気)とその道の大家によって診断され、母も生涯それを信じていたのでしたが、近年それは誤診であって、鬱病の発作であったことが千谷七郎先生によって証明されたと聞き、本当に安心いたしました。)
 たとえば、帰国後まもない事だったと思いますが、ある日、私は突然、父に書斎にすぐ来る様にいいつけられ、そして訳もなく私は正座させられて、父に睨みつけられました。その只ならぬ父の形相に怯えて、私は火をつけた様に泣き出してしまいました。
 父はいきなり力まかせに私の額を押し飛ばします。私は引っくり返って、そのままの姿勢で、恐ろしさと突然ぶたれた悲しさ、くやしさで、手足をばたばたさせて一層激しく泣きじゃくりました。しかし、こういう時は触らぬ神に崇りなしで、家中がひっそりと息をひそめ、母もお手伝いさんも救いには来てくれないのです。
 それで父はといえば、今こづいた事も、私が側で泣き喚いている事もそれきりで忘れてしまったようで、そ知らぬ顔で机に向って、読書に耽っているのでした」
           

                    松岡筆子「夏目漱石の『猫』の娘」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

どうやら、夏目漱石はあまり子供が好きではなかったようです。『吾輩は猫である』を読んでも、『道草』(自伝的小説)を読んでも、子供への愛はあまり感じられません。

たとえば『道草』で三女が生まれたとき、こう書いております。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「また女か」                                                健三にも多少の失望の色が見えた。一番目が女、二番目が女、今度生まれたのもまた女、都合三人の娘の父親になった彼は、そういうものばかり生んでどうする気だろうと、心の中で暗に細君を非難した。しかしそれを生ませた自分の責任には思い至らなかった。     田舎で生まれた長女は肌理の濃やかな美しい子であった。(中略)しかし当てにならないのは想像の未来であった。健三が外国から帰った時、人に伴れられて彼を新橋に迎えたこの娘は、久しぶりに父親の顔を見て、もっと好いお父様かと思ったと傍のものに語った如く、彼女自身の容貌もしばらく見ないうちに悪い方に変化していた。彼女の顔は段々丈が詰まって来た。輪郭に角が立った。建三はこの娘の容貌の中にいつか成長しつつある自分の相好の悪い所を明らかに認めなければならなかった。                 次女は年が年中腫物だれけの顔をしていた。風通しの悪いからだろうというのが本で、とうとう髪の毛をじょぎじょぎに切ってしまった。顎の短い目の大きなその子は、海坊主の化物のような風をして、其所いらをうろうろしていた。

                            『道草』八十一より

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

もう一つ見てみましょう。鏡子夫人の『漱石の思ひ出』への一節です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「次女の恒子がようやく三つで、ちょうど赤ん坊ができて私に離れた時なので、ひいひいよく泣くのです。もちろんやかましくもあるのですが、それがひどく神経にさわるとみえて、夜中にでもなんでもひどい目にあわします。ひとつには私への面当てかと思いましたが、ともかく時々狂的にいじめるのです」

                         夏目鏡子『漱石の思ひ出』

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

前者は漱石特有のユーモア精神や、身内への謙遜があるでしょう。ですが、やはり子供はそれほど好きではなったようです。ただ繰り返しますが、四女の愛子にはやさしかったとされています。またこの中には、女児蔑視的な記述がありますが、漱石の場合、男の子たちからも、あまり好かれていなかったことを記しておきます。後者を見ますと、漱石は物音には敏感で、静寂を好んだように思います。しかし、いかに子供が好きではない・・・と言いましても、父親としての漱石は、経済的に不自由のないように、いつも心を砕いていたということは、決して見逃してはなりません。

それでは漱石はなぜ子供があまり好きではなったのでしょうか?・・・どうやら生い立ちと関係があるようです。これについては次回に述べましょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年3月13日 (金)

夏目漱石は精神異常であったか?⑥

今回は、漱石の子供たちが、父親漱石をどう見ていたかを、文章で見てみましょう。

まず長男の夏目純一氏の文章です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「世間一般に伝わっている父は、たいてい無理解な母に悩まされ、家庭的にはあまり恵まれなかった人のように考えられている。今までそれについてずいぶん語られたり、また書かれたりしているのだが、それらについて私達が発言する機会はあまりなかった。そこで父について少し言うと、ふだんの父はとても温和な、よい人であった。すぐ上の姉は、父と散歩などに行った帰りはかならずおんぶしてもらって家まで帰って来たと、父のやさしかった面を私達に話してくれた。また晩年の母も時々トンチンカンなことを言って皆に笑われると、よく私達に言ったものだった。「お前達は何かというと私を笑うけれど、お父さまはそんなときけっして笑ったりはしないで、いつも親切に教えてくれたよ」と。この親切な父が突然機嫌が悪くなり、ヒステリーのようになって、近よることが出来なくなるのである。要するに、よい時と悪い時との差があまりにもひどいため、とうてい同じ人と思えないくらい変ってしまうのだ。残念なことに私などは、その悪い方の記憶が多く頭に残っていて、やさしかった父のことはあまりおぼえていない」
                          夏目純一「父の病気」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

つまり、純一氏には父親のいい記憶があまりないということです。これは文章ばかりでなく、会話でも、そのようなことを、他人に明確に話しているのです。

ところで、他の子供たちはどうかと言いますと、この文章の中で、「すぐ上の姉」とありますが、これは「愛子」のことであり、漱石はなぜか「愛子だけはほとんど怒ることをしなかった」らしいのです二人は仲が良くて、夜に一緒に添い寝したりしています。ところで愛子はどういう子だったかでしょうか?どうやら父親に対して物怖じしない子であったということです。漱石は『個人主義』についての講演をしておりますが、漱石は子供に対しても、そういうきちんと自分の意見をわだかまりなく言える人間が好きだったのだろうと思います。

次回は長女筆子の父親観を見てみましょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年3月12日 (木)

夏目漱石は精神異常であったか?⑤

これまでの経緯を見ますと、夏目漱石はときどき、あるいは周期的に精神的に異常を来したことは間違いないでしょう。

話はこれから佳境に入るのですが、その前に異常を来たさない漱石・・・つまりノーマルな漱石は、どういう人であったか・・・これをちょっと覗いてみましょう。

どうやら、漱石はユーモアを解し、また講義なども堂々としていたらしいのでございます。また頼みごとがあると、できるだけそれに応えるような優しい面も持ち合わせていたようです。その他、おしゃれであった・・・という記述もございます。

以下の文章は、前者は寺田寅彦(物理学者。熊本第五高等学校で漱石の授業を受けている)のもの。後者は長谷川如是閑(ジャーナリスト。評論家。作家)のものです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「上野の音楽学校で毎月開かれる明治音楽会の演奏会へ時々先生といっしょに出かけた。ある時の曲目中にかえるの鳴き声やらシャンペンを抜く音の交じった表題楽的なものがあった。それがよほどおかしかったと見えて、帰り道に精養軒前をぶらぶら歩きながら、先生が、そのグウグウグウというかえるの声のまねをしては実に腹の奥からおかしそうに笑うのであった。そのころの先生にはまだ非常に若々しい書生っぽいところが多分にあったような気がする。
 自分の白いネルの襟巻がよごれてねずみ色になっているのを、きたないからと言って女中にせんたくさせられたこともあったが、とにかく先生は江戸ッ子らしいなかなかのおしゃれで、服装にもいろいろの好みがあり、外出のときなどはずいぶんきちんとしていたものである。「君、服を新調したから一つ見てくれ」と言われるようなこともあった。服装については自分は先生からは落第点をもらっていた。綿ネルの下着が袖口から二寸もはみ出しているのが、いつも先生から笑われる種であった。それから、自分が生来のわがまま者でたとえば引っ越しの時などでもちっとも手伝わなかったりするので、この点でもすっかり罰点をつけられていた。それからTは国のみやげに鰹節をたった一本持って来たと言って笑われたこともある。しかし子供のような心で門下に集まる若い者には、あらゆる弱点や罪過に対して常に慈父の寛容をもって臨まれた。そのかわり社交的技巧の底にかくれた敵意や打算に対してかなりに敏感であったことは先生の作品を見てもわかるのである」

              寺田寅彦 『夏目漱石先生の追憶』より

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「いよいよ講演の夜である。その時分はまだ今の大阪公会堂が出来ない前で、木造の相当大きい建物だつたが、超満員で演壇にまで聴衆を座らせる騒ぎで、講演者はテーブルの傍で講演が出来ないで演壇の前の方に立つてやつた。
 当夜は漱石の前にはやはり社員の故本多静一郎氏が得意の財政演説をやつたが、すばらしい雄弁で踊るやうなヂエスチュアー入りで、盛んに政府の財政を攻撃して聴衆を湧かしたので、その後で地味な文学論をやる――たしかあの「創作家の態度」といふのがその時の講演の筆記だつた――漱石の迷惑想ふべしと、私は気の毒で聞くのもつらいやうだつたが、いよいよ漱石が演壇に立つて一言二言話し出すのを聞いて私は全く驚いた。政談演説の会場のやうにざわついてゐる真中で文学論などを落ちついてやる気分も出なからうし、第一演説使ひのやうな声でなければ通らない会場なので、大声で講義じみた講演をどうしてやるかと心配してゐたのだが、少し聞いてゐるうちにそんな心配がとんだ見当違ひであつたことを知らされて私はほんとうにホツとした。
 漱石は、ざわついた会場の空気に応じた、言葉とヂエスチュアーとでまづ聴衆の心理を捉へておいて、徐ろに話をすゝめて行つたが、私の最も驚いたのは、大劇場で世話物を演ずる俳優のやうに、通常の会話風の言葉を大声で語り得る技術だつた。これは今日でもまだ新劇の連中などには充分出来てゐるといはれないほど修練を要するものだが、漱石はあの座談風の言葉を二千人もの聴衆で埋めてゐる会場に行きわたるやうに発声することが出来るのである。これには全く驚ろかされた」
                           

             長谷川如是閑『始めて聞いた漱石の講演』より

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

次回は漱石の異常さはどういうものであったかを、詳しく記したいと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年3月11日 (水)

夏目漱石は精神異常であったか?④

今日は目先を変えて、鏡子夫人の弟は、義兄である漱石のことを、どう見ていたか?・・・これを少し引用しておきましょう。

以下の文章は、中根倫の『義兄としての漱石』よりの一節です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「洋行から帰つて後は、がらりと容子が変つて、近頃はどうも仕事をしたくねえ、十万円欲しい、学校へも行きたくねえといふやうなことを、始終口癖のやうに云ひ出しましたよ。さうかと思ふと、自分があちらで自転車に乗ることをおぼえて来たものだから、一緒に自転車に乗らうとか、僕が子供の時から弓を引くので、おい、大弓引きに行かうとか云つて連れ出す。趣味は、古道具屋なぞをほっつき回つて、自分の気に入つたものがあれば、昔から名前のあるなしに拘らず、財布に金のあるだけ買つて来る。何でも義兄さんの持つてゐる物を、これは好いなと褒めると、きっとくれたものでした。(中略)
 が、どうも世の中には気に入らないことばかりがあるやうで、社会は盲目だとか、官吏や会社員には不当な報酬があるが、学者はたとひ社会に稗益してもその割合に報酬がないとか云つてゐましたよ。その時分からだんだん神経衰弱がひどくなつて行つたんですね。耳には絶えず自分の悪口が聞えてゐたらしい。縁側に立つて、前の下宿屋の二階にゐる書生と口論したり、姉の留守に女中を二人とも追ひ出してしまつたりしたのも、その時分のことでしたよ」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この一文を見る限り、漱石は義弟や弟子たちには、気前のいい人だったということがわかります。

しかし、どうやら幻聴が聞こえていたようで、これは一時的かもしれませんが、軽い統合失調症の傾向があったと言えるかもしれません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年3月10日 (火)

夏目漱石は精神異常であったか?③

夏目漱石の精神異常は、周期的なものとして見れば本物でした。つまり、ときどき周期性をもって、明らかな異常性が現れるのでした。

以下の例は、有名なもので、奥様の夏目鏡子が述べた『漱石の思い出』の中に出てきます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「たしか三日めか四日めのことです。長女の筆子が火鉢の向こう側にすわっておりますと、どうしたのか火鉢の平べったいふちの上に五厘銭が一つのせてありました。べつにこれを筆子が持って来たのでもない、またそれをもてあそんでいたのでもありません。ふとそれを見ますと、(漱石が)こいついやな真似をするとか何とかいうと思うと、いきなりぴしゃりとなぐったものです。何が何やらさっぱりわかりません。筆子は泣く、私もいっこう様子がわからない・・・」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

このとき、長女筆子は3歳8ヶ月です。その幼児に向かって、何の意味もなく殴ったのですが、でも漱石流の理由はありました。その理由とは、漱石がロンドン留学中のある日、乞食に銅貨を恵んでやったことがありました。ところが、それと同じ銅貨が下宿の便所の窓に乗っていたということです。それで精神的におかしくなっていた漱石は、「下宿のかみさんが、四六時中自分のことを見張っていて、これ見よがしに乗せたに違いない」と腹が立ったというのです。要するに、その時のことを思い出し、腹が立ってきて、3歳8ヶ月の幼児を殴ったということらしいのでございます。でも、これは明らかに精神的におかしな行為と申せましょう。

でも、漱石の異常性ばかり述べても不公平ですので、漱石の性格の優れたところも、あわせて述べたいと思います。以下は作家・翻訳家・評論家の内田魯庵の書いた、漱石を称える一文『温情裕かな夏目さん』よりの一節です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「夏目さんは好く人を歓迎する人だったと思う。空トボケた態度などを人に見せる人ではなかった。それに話が非常に上手で、というのは自分も話し客にも談ぜさせることに実に妙を得た人だった。元来私は談話中に駄洒落を混ぜるのが大嫌いである。私は夏目さんに何十回談話を交換したか知らんが、ただの一度も駄洒落を聞いたことがない。それで夏目さんと話す位い気持の好いことはなかった。夏目さんは大抵一時間の談話中には二回か三回、実に好い上品なユーモアを混える人で、それも全く無意識に迸り出るといったような所があった。
 また夏目さんは他人に頼まれたことを好く快諾する人だったと思う。随分いやな頼まれごとでも快く承諾されたのは一再でない。或る時などは、私は万年筆のことを書いて下さいと頼んだ。若い元気の好い文学者へでも、こんな事を頼もうものなら、それこそムキになって怒られようが、先生は別に嫌な顔などはせられなかった。ただ「僕は困る」と言われた。と、私は、「いえ、悪くさえいわねば好いから……調法なものだ位いに書いて下さい」と頼んだ。そんな風で、いわばこちらで書き上げた物にただ署名してもらう位いにしても快諾されたことがある」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

人間と言いますのは、いろいろな見方があるものでございます。

  

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年3月 9日 (月)

夏目漱石は精神異常であったか?②

さて、前回は次男夏目伸六氏の回想録から、漱石のかなり異常な行為の一文を引用しました。漱石には、七人の子供がありました。年令の順番に、筆子、恒子、栄子、愛子、純一、伸六、雛子の七人で、内訳は二男五女です(なお雛子は夭折しております)。妻は鏡子で、父中根重一は貴族院書記官長であり、鏡子は長女でした。

今回は妻の鏡子が語り、娘筆子の婿の松岡譲が筆録した『漱石の思ひ出』から、漱石の異常な行為を引用します。ただし繰り返しますが、漱石は弟子たちからは、ひどく尊敬されていた・・・ということは再度申し述べておきます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「六月の梅雨期ごろからぐんぐん頭が悪くなって、七月に入ってはますます悪くなる一方です。夜中に何が癪にさわるのか、むやみと癇癪をおこして、枕と言わず何といわず、手当たりしだいにものをほうり出します。子供が泣いたといっては怒り出します。時には何が何やらさっぱりわけがわからないのに、自分一人怒りだしては当たり散らしております。どうにも手がつけられません」

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「このころは何かに追跡でもされている気持ちなのかそれとも脅かされるのか、妙にあたまが興奮状態になっていて、夜中によくねむれないらしいのです。夜中、不意に起きて、雨戸をあけて寒い寒い庭に飛び出します。(中略)やがて何事もなく戻って参ります。かとおもうと夜中に書斎でドタン、バタン、ガラガラとえらい騒ぎが持ち上がることがあります。(中略)まあよかったと翌朝学校へ出るが早いか書斎に入ってみますと、ランプの火屋(ほや)は粉微塵にわれている、火鉢の灰は畳一面に降っている、鉄瓶の蓋は取って投げたものとみえてとんでもないところにごろついている。二目と見られた部屋の模様じゃありません。留守の間に大掃除をしておくと、帰って来てまたけろりとしてそこに入っております」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ここで、注意しておきますが、これは別に夫婦喧嘩ではないようです。なぜなら漱石の癇癪や陰湿なイジメ?は、妻だけに向けられるのではなく、子供や女中にまで向けられているからです。次回は、長女への異常な行為などについて、見てみましょう。次回の引用の中では、明らかな精神異常が見られることでしょう。

                    


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年3月 8日 (日)

夏目漱石は精神異常であったか?①

夏目漱石に関する研究本を読むと必ず、漱石が精神をひどく病んでいた記述が出てきます。でもまた、弟子たちの漱石の思い出を読むと、「穏やかな紳士であった」というのが、普通に見られる記述です。果たして、どちらが正しいのでしょうか?

10回くらいのシリーズで、それについて考えてみましょう。

家族・親族・友人・弟子たちの引用文を豊富に載せますので、読者の皆さまにご判断をお願いしたいと思います。

まず初回の今回は次男の夏目伸六氏の『父夏目漱石』からの狂人としか思えない引用文です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

恐らくまだ私が小学校へあがらない、小さい時分の事だつたらう。丁度薄ら寒い曇つた冬の夕方だつた。私は兄と父と三人で散歩に出た事を覚えて居る。(中略)私等はいつの間にか、色々と見世物小屋の立並んだ神社の境内へ入つて居た。親の因果が子に報いた薄気味悪いろくろつ首や、看板を見た丈でも怖気をふるふ安達ヶ原の鬼婆など、沢山並んだ小屋がけのうちに、当時としてはかなり珍しい軍艦の射的場があり、私の兄が其前に立ち止つてしきりと撃ちたい、撃ちたいとせがんで居た。恐らく私も同様、兄と一緒にそれを一生懸命父にねだつて居た事だらう。父は私等に引張られて、むつつりと小屋の中へ入つて来た。(中略)
「おい?」突然父の鋭い声が頭の上に響いた。
「純一、撃つなら早く撃たないか」
 私は思はず兄の顔へ眼を移した。兄はその声に怖気づいたのか急に後込みしながら、
「羞かしいからいやだあ」
と、父の背後にへばりつく様に隠れて仕舞つた。私は兄から父の顔へ眼を転じた。父の顔は幾分上気をおびて、妙にてらてらと赤かつた。
「それぢや伸六お前うて」
 さういはれた時、私も咄嗟に気おくれがして、
「羞かしい……僕も……」
 私は思はず兄と同様、父の二重外套の袖の下に隠れようとした。
「馬鹿つ」
 その瞬間、私は突然怖ろしい父の怒号を耳にした。が、はつとした時には、私は既に父の一撃を割れるやうに頭にくらつて、湿つた地面の上に打倒れてゐた。その私を、父は下駄ばきの儘で踏む、蹴る、頭といはず足といはず、手に持つたステッキを滅茶苦茶に振廻して、私の全身へ打ちおろす。兄は驚愕のあまり、どうしたらよいのか解らないといつた様に、ただわくわくしながら、夢中になつてこの有様を眺めてゐた。その場に居合せた他の人達も、皆呆つ気にとられて茫然とこの光景を見つめて居た。私はありつたけの声を振絞つて泣き喚きながら、どういう訳か、かうしたすべてを夢現の様に意識して居た。また自分自身地面の上を、大声あげてのたうちながら、衆人環視の中に曝されたかうした自分の惨めな姿を、私は子供ながらに羞かしく思はずに居られなかつた。

夏目伸六「父夏目漱石」

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年3月 6日 (金)

芸能界奇人列伝ー丹波哲郎さん~番外編~

丹波流の『人生、楽に生きる方法』・・・いかがでしたでしょうか?

人間は、ともすれば、自分の人生の不幸を嘆きがちなもの。でも、その嘆きは、ただ単に「自分にとって不必要なことをやっているにすぎない」のかもしれません。「狭い価値観の虜のせいで不幸になっているだけ」なのかもしれませんね。たとえば「こんなことをしたら、他人に笑われる」とか「あいつに負けるのは悔しい」とか・・・そういうことを考えていたんでは、決して本当の幸福は手に入れられないのでしょう!いい意味で、『わが道を行くこと』、これこそが最も幸せに通じる近道のようでございます。

丹波さんの前半生は、「負け続け」の人生。だからこそ、「真の自分の天命」に気づかれたのでしょう。もしも前半生が勝利の日々だったら、どうでしょうか?・・・きっと、「霊界のことを話すなんて嫌だよ。タブーの領域だからな」・・・ということになっていたことでしょう。

さて今回は最後に、霊界のことを整理しておきたいと思います。

どうやら霊界は存在するようでございます。でも、あまり霊界のことに囚われすぎて生きるのも、間違っているようです。やはり現世において、自分の天命を十分に果たし、あわせて自己実現を成就することが最も肝要なことと思います。

でも全く霊界を考えずに、「この世ですべては終わりさ」などと考えていると、どうでしょうか?そういう人は、霊界に行ってから「こんなはずじゃなかった」などと、泣きを見ることにもなるでしょう。ですから、ある程度でいいですから、霊界の真実を知っておいた方がいいと思われます。

そのための勉強ですが・・・

もちろん丹波さんの書物も立派なものですが、私は個人的には、スエデンボルグという人の書いた書物が、最も格調が高いものであると感じました。静思社などの出版社から出ていますので、ネット・・・とくにアマゾンなどを調べられて、ご自分で一度ご覧になってはいかがでしょうか?決して、損はないでしょう。

私事で恐縮ですが、私は若い頃から霊界のことを調べ、現在はほぼどういうところかがわかっております。ですから死ぬことも全然怖くございません。死ぬことが怖くなければ、心豊かに毎日を生きられるわけです。おかげさまで、歯の老化現象以外は、健康に暮らしております。ま、頭のできの悪さは別にしておきますが・・・。

・・・最後にもう一つ・・・ぜひぜひ付け加えたいことがございます。

それは、「もしも現世が素晴らしいところであれば、霊界に行くこともなく、すぐに生まれ変わることができるらしい」ということです。ビートルズのジョン・レノン。彼は『イマジン』の中で、「天国も地獄もない理想世界」を歌いました。そのような理想世界においては、人間は皆素直に生きておりますから、心に垢がたまりません・・・そもそも霊界という所は、心の垢を落とし、新しい人生(来世)に備えるための場所ですから、心の垢のない人には、不要な場所らしいのです。チベット人はわずか49日で生まれ変わると言っております。

私はいつも思います。地球もいつしか、そういう「心の垢のたまらない世界」になればいいのに・・・と!・・・そのためには、まず一人ひとりが、憎しみを捨て、自分の天命に従って、いい仕事をすることです。天命ならつらいことも、きっと忘れられることでしょう。毎日が充実していることでしょう。そのとき・・・そう、そのときこそ、「垢のたまらない世界」が生まれることでしょう。そういう世界はいつか生まれるはずです!きっときっと必ず!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年3月 4日 (水)

芸能界奇人列伝ー丹波哲郎さん⑦

丹波さんの奇抜なエピソードは尽きません。

『人間革命』という創価学会会長の伝記映画に出演。その後、創価学会の主催する大会に講演者として出席。そのとき創価学会の素晴らしい活動を称えたあと、終わりに「南無阿弥陀仏」と言ってしまったのは有名です。また『人間革命』の撮影と同時に、『ポルノ時代劇』という映画にも主演なさっておられたとか。

愛人とかくし子がいたことは有名です。というより、二つの家庭を分け隔てなく愛し、しかもそれを公にしていたことは、ある意味でアッパレですね。陰湿なドロドロ劇とは無縁だったようでございます。これも丹波さんのお人柄でしょう。大体、丹波さんは、女性の身体に触れるのが大好き。それでいて、女性に嫌われなかったのも(・・・そりゃ、嫌った女性もいたかもしれませんが)、面白いことですね。

どうやら丹波さん、本名が「正三郎」だけあって、すべての真実を明らかにするのがお好きなようです。そう言えば、少年時代の実家の恥ずかしい話も、淡々とテレビで語っておりました。お父様が経済的に、ご両親のお世話になりっぱなしだったこととか・・・そういうことです。いや、自らの恥ずべき話もすべて話してしまいますから、霊界についても、「きっと本当なんだろうな」と、自然と思ってしまいます。

丹波さんは、2006年9月24日、84歳で亡くなられております。最後のお顔は、まるで別人のようでございました。どこか仙人のような品のあるお顔でした。

「天命を知れば、人生は楽もんさ」・・・確かにそうなのでしょう。「人生、とりたてて努力なんかしなくていいんだよ」・・・・この言葉にはご謙遜もあるでしょうが、ホッと人生を立ち止まり、人生の意味を考えさせられる言葉ではあります。

現在日本は不況でございます。こういうときこそ、自分の使命は何なのか?・・・をじっくり考えるいい機会なのかもしれません。(終わり)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年3月 3日 (火)

芸能界奇人列伝ー丹波哲郎さん⑥

「人間、努力なんて必要ないさ。使命をはたせば、ちゃんと生きれるものなのさ」・・・丹波さんは、いつのころからか、こう目覚めたのでありました。

その使命とは、霊界の宣伝マン・・・つまり「霊界の真の姿を、人々に示すこと」、これでした。丹波さんがお偉いのは、実際に、これを最高の形で実行に移したことでした。

事あるごとに、さまざまな媒体を通じ、「霊界が存在すること」、また「そこはどんなところなのか?」・・・を日本国民に示そうとなさいました。著作、講演活動も、積極的になさいました。また機が熟したと見ると、自ら原案作成、監督、総監督、脚本などを手がけ、『大霊界』シリーズを映画化したのでありました。この三つの映画は、大きな反響を呼び、300万人以上の観客を動員したのでした。

霊界を紹介したばかりではありません。丹波さんは超能力者などの分野にも、正しい評価を与えようとなさいました。たとえば、明治時代に山形県鶴岡市に生まれた長南年恵という女性。この女性は一生の間、ほとんど物を食べずに過ごしました。若い頃は、生のイモを少し食べるだけ。そのうち成長するにつれ、何も食べない・・・という奇妙な生活を送りました。しかも、彼女はきわめて健康で、他人を負ぶって歩いたりもしました。また長南年恵のまわりでは、いつも心地よい音楽が聞こえていたと言われています・・・このようなことを書くと、「まさか!冗談は止せ!」という思うのが、まともな人間でしょう。しかし長南年恵の場合は、この件で裁判にもかかり、彼女の超能力はきちんと証明されております。丹波さんは著作などを通じて、このような超能力のある人たちに、正当な評価を与えようとしたのでございました。

ここで私見を申し述べさせていただけば、私自身、超能力は胡散臭いものだと思っております。でも地球上、65億の人間がいれば、中には不思議な能力のある人がいてもいいと思います。また人間に超能力があることは、いろいろな実例がございます。たとえばオーストラリアの原住民アボリジニは狩に出かけ、その成果をテレパシーを通じて、仲間に伝えております。

でも繰り返せば、こういうことを信じすぎてもまずいわけで、『信じすぎず、ある程度信じる』というのが、人間として一番正しい態度かと思います。

霊界も、同様なことが言えるのではないでしょうか?まるっきり信じすぎるのも、霊感商法など困った事態が起こるでしょう。逆に、すべては現世で終わる・・・というのも、さまざまな事実と反します。ですから、魂を成長させる範囲で、また、それぞれの個人の自由意志で信じ、また信じないという態度を取ることがベストなのではないかと思っております。

閑話休題・・・かくして霊界の宣伝マンとなられた丹波さん。この方は、ベストの宣伝マンでありました。なぜなら丹波さんの性格は得がたいものであり、本当なのか、冗談なのか、そういういい加減なところとユ-モアと、またよく聞けば、大いなる真面目さも混在している・・・そんなご性格は、なかなか見つからないのでありまして、実に霊界のことを述べるのに、一番適していた方と言えるのではないでしょうか?

丹波さんの失敗+ユーモア人生は、もう筋金入りであり、あるとき、とんでもない大失敗をなさいました。これについては、次回に述べさせていただきましょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年3月 1日 (日)

芸能界奇人列伝ー丹波哲郎さん⑤

丹波さんの人生ほど面白いものはございません。

もちろん、ご本人はいろいろとひどい目に遭ってはおられます。でも、それはある意味で、自業自得。なぜなら「全然努力をする気はないから」なのです。でもご本人いわくー「努力なんか必要ないよ!人生、何とか、うまくいくもんさ!」。

これを証明したのが、前回も述べたように、「二年間、通訳を全くしない通訳で、ただ飯を食べた」ということです。しかし、この方の驚くべき行動はまだまだ続きます。

それを述べる前に、映画界の成功以降の人生を見てみましょう。丹波さんは、1960年にフリーになられ、テレビ界にも登場します。そして『丹下左膳』や『三匹の侍』などに出演し、ヒーローになります。ちょっと面白いですね。映画界では、脇役ばかりやっていた方がテレビでは主役をやり始めたのです。

ここで面白いエピソード一番目!・・・丹波さんは『丹下左膳』をやるとき、本当は役どころが左利きなのに、「そんなこと俺できないよ!」・・・と、例によって全然努力はなさらず、右利きの侍に変えてしまいます。右利きの『丹下左膳』をやったのは、丹波さんだけです。

『Gメン』はもっと面白いですね。「仕事は家庭に持ち込まない」主義の丹波さんは、セリフなどハナから覚えません。いや、それどころか、台本も読みませんから、どんな内容のドラマかも知らないわけです。ですから現場に行ってから、共演者に「ええと、今日のドラマの内容を教えてくれ!」と頼み込みます。その後、スジが頭に入ると、撮影に入るのですが、セリフはカンニングペーパーですませたわけですね。ここまで徹底すると、逆に頭が下がりますね。

でも、なぜ丹波さんはそういうことができたのか?・・・ひとつは、それだけの商品価値があったということでしょう・・・・でも丹波さんは、そういう見方をいたしません。丹波さんの見方はこうですー「ただ自分は与えられた使命を果たしているからだ」と言います。そう。丹波さんの人生観は、「人にはそれぞれ、持って生まれた才能や使命のようなものがある。それに気づき、その実現に心配りさえすれば、大した努力などしなくても、自然と天は自分を生かしてくれるものなのだ」ということなのです。

ですから「5ページ以上セリフのある仕事は受けつけない」・・・「出演依頼は二度断り、三度目にやっと受諾する」・・・「仕事を取りすぎるマネージャーはクビにする」・・・という方式でも、自分は生かされている以上、安心していたわけです。

私たちも、そういう使命のようなものに気づくことこそが、人生を楽に生きる一番のコツかもしれませんね。(ただ、もしそういう使命を感じなければ、自分から探してもいいと思います・・・宣伝マンや助けを求めている人たちというのは、世の中にはたくさんいることでしょう)。

丹波さんの面白いエピソードは、尽きることがありません。

以下、次回にさせていただきます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2009年2月 | トップページ | 2009年4月 »