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2009年4月

2009年4月30日 (木)

赤塚不二夫さんの「ハチャメチャがいいのだ」⑮~最後に~

小学生の頃、初めて『赤塚さんのギャグ漫画』を読んだときのことを今でもハッキリ覚えています。丁度漫画週刊誌が創刊された頃。その前は月刊誌が主流でした。

何て面白いんだろう!すぐにファンになりました。名前もすぐに覚えました。「赤」という字が入っていましたので、子供心に印象が強かったんですね。

以来、ずっと少年時代の私は赤塚さんの漫画を読み続けました。そして大きな快楽を得ました。このことに関し、赤塚さんに深く感謝申し上げたいと思います。

でも今回、赤塚さんの一生を調べますと、面白い漫画の背景には、地獄の体験がいっぱいあり、また素晴らしい芸術(本、音楽)や、ハリウッド映画やフランス映画など、美しいものとの出会いや積極的な摂取がたくさんあったことを知らされます。各界の著名人との幅広いご親交・・・そしてまた普通一般の人々との数え切れない交流。ホームレスの人でさえも、自宅に遊びに来るような融和的なご性格・・・

そしてまた驚くべき行動は山ほどありますね。すでに述べましたが・・・『天才バカボン』をマガジンからサンデーに!ペンネームを山田一郎に!二人の妻の仲のいい交流!・・その他、漫画の内容でも、ありえないことを多数やっておられます。1ページ全体に、登場人部の顔を描いたり!登場人物の動きをスローモーションで描いてみたり・・・・でも、こういう実験や勇気ある行動も、赤塚さんの人生を知ったとき、納得できます。満州での地獄体験。それから大和郡山時代のハチャメチャな2年間の遊び三昧の生活・・・これらの中に超面白ギャグ漫画の源流があったのでしょう。

・・・とすれば、赤塚漫画のファンの少年たちは、赤塚さんの漫画を通して、予想外に、そして間接的にいろいろなものを眺めていたのでしょうか?たとえば満州の夕陽や満州人やロシア人たち、そして戦争時代の地獄・・・さらには戦後の満州および日本の混乱・・・それからお父様やお母様を初めとするさまざまな人々、そういった風景や人間の生き様・・・それらのものを私たち少年は、赤塚さんの漫画の中に、無意識的に感じ取っていたのでしょうか?・・・早い話が、バカボンのパパも、チビ太もハタ坊もニャロメも、モデルがいたわけですね。

と申しましても、私は赤塚さんのすべてを肯定するわけではありません。本文中にも書きましたが、赤塚さんは、してはいけないこともなさいました。

でも、赤塚さんの人生のマイナスは、プラスの中で矮小化されるものと信じています。

とくに・・・「どんな敵同士も、わかりあえる」・・・この精神は実にいいですね!最高の人性論です!

確かに戦争だけはもうこりごり!赤塚さんは、戦争のマイナスを笑いのプラスに変えた方でした。「面白ければ、それでいいのだ!」・・・どうやら、この文のあとに「戦争をするよりは・・」という文が入るのでしょうか。

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2009年4月28日 (火)

赤塚不二夫さんの「ハチャメチャがいいのだ」⑭~「山田一郎」に驚きの改名~

有名人の赤塚さんはある日、驚くべき真実に気づかれます。それは作品と作者名との関係!

私たちはいい作品を評価します。しかし、いい作品を評価したあと、「それを作った個人」のことに思いを馳せています。そして、実は・・・作品と製作者を両方評価して、その作品は多くの人に読まれるようになっております。

極端なことを申せば、「10人を殺した人が、名作を作っても、世間はそれを評価しません」。しかし、この方式はまた大きな矛盾も孕んでいます。そう。つまらない作品でも、「有名作家や画家、音楽家」が作ったとわかれば、皆は高く評価するということです。

ナポレオンが穿いたパンツがあれば、きっと何千万円でオークションにかけられることでしょう。ヒトラーが愛用した爪切りだって、その値は相当なものになるでしょう。

面白い実験があります。最初、有名作家の書いたものと発表された『名作』。その後、無名の別人が書いたと判明したらどうなるか?・・・人々は、その名作をしばしば無視するようになります。

このような大きな矛盾!・・・これに気づかれた赤塚さん!・・・この方は、早速、この矛盾を解消せんと、行動に移します。そう。自分の名前を「山田一郎」という極めて平凡な名前に改名してしまったんです。そして、いろいろな有名人に言いますー「あなたも、山田一郎にしませんか?あなたの作品が純粋に評価されますよ!すばらしいことじゃないですか!」。しかし、勧められた有名人たちは、もちろん断固拒否。そんなことをしたら、生活できなくなるからです。

ところで・・・私事で恐縮ですが、私はギターの弾き語りをいたします。日々、いろいろな歌を歌いながら思うことがあります。『ああ、この歌の詩はいいんだけど、曲はいまいちだな・・・』・・・『この歌は、この歌詞を・・・こう変えたら、すばらしい歌になるんだが』・・・何度もこういうことを考えながら、つい思ってしまいます・・・『この詩に、新しい曲をつけられないものだろうか?』・・・実際は、著作権などがあって、これは無理。私の夢は叶いません。つまり著作権やその他の個人保護の法律のせいで、素晴らしい芸術作品が生まれる路が閉ざされていることも事実です。実に惜しいことではあります。ただし私が自宅で歌う分には自由。かくして私は既存の歌の歌詞を変えたり、メロディを一部変えて歌ったりしております。

・・・さて、赤塚さんの「山田一郎」への改名はどうなったでしょうか?

数ヶ月で挫折をしてしまいます・・・・当然と言えば当然ですよね。でも、赤塚さんのチャレンジ精神に、三重丸を上げたいですね!

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2009年4月25日 (土)

赤塚不二夫さんの「ハチャメチャがいいのだ」⑬~「おやじ」と「かあちゃん」~

著書の中で、赤塚さんは、お父様のことを「おやじ」と呼び、お母様のことを「かあちゃん」と呼んでおります。かなりのマザコンでもあったようで、自らもそう告白しております。  

 今回は、ご両親の夫婦関係について、簡単に記しておきたいと思います。  

二人が結婚なされたのは満州。「おやじが26歳、かあちゃんが24歳」と記してあります。赤塚さんによると、「かあちゃんは芸奴だった」とあります。当時、「おやじ」は憲兵であり、お二人は客と芸奴という関係から、結婚に発展したわけなのでしょう。    

しかし結婚後の満州の生活は厳しいもの。常に、死と隣り合わせの毎日でした。「おやじ」が「かあちゃん」にピストルを渡し、「いざというときは、子供を殺して、自分も死ぬように」と言い含めていたのは、すでに書いた通りでございます。

終戦後は、お父様は4年間もシベリア抑留を体験されます。さぞや苦難の日々だったでございましょう。

日本に戻られてからも、夫妻は、新潟と奈良・・・それから、東京と新潟で離れて暮らしたりしています。でも共に暮らしていた頃は、お風呂に一緒に入ったり、結構仲良くやっておられたようです。

「おやじ」は60歳のとき、肺結核に罹りました。当然、隔離され、療養生活が続きます。病状は思わしくなく、一進一退が続きました。

そんなある日のこと・・・「かあちゃん」は決意をしました。その決意を実行した後、帰宅し、子供たちに言いました。                                      「ねえ、みんな!・・・かあちゃん、とうちゃんのために、これ消してきたよ!」

見れば、「かあちゃん」の腕からは刺青がきれいに消えていました。             そう。「かあちゃん」の腕には結婚後もずっと「**命」という「モトカレ」の名前が彫ってあったのです。もちろんお父様も、それを知っておられて、結婚なさいました。またお母様は子供の頃、右目を傘で突いて、義眼になっていました。その義眼も、お父様は許しました。先に亡くなられたのはお母様でした。くも膜下出血・・・直接の死因は、その後に発生した心不全。刺青を消されてから、2年後のことです。

 お父様はその後、10年以上長生きされましたが、71歳のとき、リンパ腺癌で死去。     

 あくまでも私の感想ですが・・・・お二人はいいご夫妻だったのではないでしょうか?そんな感じがいたします。

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2009年4月23日 (木)

赤塚不二夫さんの「ハチャメチャがいいのだ」⑫~自分はバカなのだ~

赤塚さんの処世術は『赤塚不二夫120%』に書いてあります。それは「自分が一番バカだと思うこと」。赤塚さんは漫画家になるとき、いろいろな人に教わっています。また助けられています。そのときに、いつも思っていたのが、「自分がこの中で一番バカだと思うことだった」と書いておられます。そういう気持ちでいると、「回りの人は、自分に手を差し伸べてくれた」ということです。

また「自分はバカだ」と思っていると、自分に害もありません。人に刺されることもないし、殴られたり、首を絞められることもない・・・確かにそうですね。この処世術はかなり正しいと申せましょう。考えてみれば、この広い宇宙の中では、アインシュタインだって、白痴となるような・・・すごい人が間違いなく無数におられるのでしょうね。「自分はすごい」なんて思うこと自体が、全くのお笑い話なのでしょう。大体、赤ちゃんのときは皆、オムツをして、ピーピー泣いていたんですからね。

でも赤塚さんは、「そういう生き方はずるい生き方だ」とも言っておられます。「でも、そうするしかなかった」・・・わけでもあります。なぜなら、満州から引き揚げてきた少年時代。赤塚少年は、いろいろな親戚の家に預けられます。そのとき学んだのが、「えらそうにしないこと。バカになりきること」・・・・これは「少しでも心地よく生きるための生活の知恵だった」と書いておられます。

この「バカになること」・・・によって、いいことは仕事の面ばかりでなく、他にもありました。それは女性にモテモテだったことだそうです。確かに、あまりに多くの女性と交情を結んでいます。

ところで、故・赤塚さんのことを話す関係者は、ほとんど「先生は・・・・」と言います。妻の真知子さんも、先生と呼んでいたそうです。赤塚さんが、死後もそう呼ばれているのは、生前「自分が一番バカだ」と思うように心がけていたからなのかもしれません。

ちなみに、赤塚さんの最後の言葉・・・・これはちょっとすごいですね。妻の真知子さんが、脳出血で意識を失う赤塚さんに、何度も呼びかけました「先生!先生!」・・・赤塚さんは、無意識の中、言いますー「あ、オッパイだ!」・・・・信じられない真知子さん、もう一度「先生!」と叫びます。赤塚さんは、もう一度「あ、オッパイだ!」と言ったあと、6年間の植物人間生活という眠りに就いたのでありました。

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2009年4月21日 (火)

赤塚不二夫さんの「ハチャメチャがいいのだ」⑪

私が赤塚さんを評価するのは、「最終的な和平」です。たとえ普段は仲が悪くても、最後には相手の人格を認め合うこと・・・・また、たとえ状況的にたまたま敵同士になろうとも、人間というのは、どこかで分かり合えるものだということ・・・これですね。戦争だけはやってはいけません。戦争はともに不幸になるだけです。環境破壊も見逃すことはできませんよね。

このように私は赤塚さんを最終的には評価するのですが、しかしこの方のすべての人生を肯定するわけではございません。赤塚さんはかなり無茶なこともしました。そういう面につきましては,『他山の石』にしたり、また少年赤塚不二夫に対しては、『それは、やってはいけないよ』とも叱責したい気持ちにもなります。

たとえば、赤塚さんは奈良の悪がき時代に、他人の畑のさつまいもなどを窃盗しています。こういうことは、言うまでもなく、いけないことです。

また悪がきたちは、ネコなどをいじめ、殺戮しています。動物には魂があるのですから、こういうことは赤塚さんのためにも、絶対にやってはいけないことでした。ちなみに石原裕次郎さんも、子供の頃に犬を虐待し、精神的に「狐憑き」のようなおかしな状態になったことがあったそうです。

長じてから、赤塚さんはアルコール依存状態になりました。これも多忙な仕事ゆえのことなのでしょうが、悲しいことです。離婚後の「女性との煩雑な性行為(350人前後?)」は、性病にも何度も罹ったそうで、自業自得と申せましょうか。独身なわけですから、何をしようと自由です。しかしこれらの行為は、あまり褒められるものではないでしょう。

また一時期、仕事にも身が入らず、遊び歩いて関係者に迷惑をかけた・・・ということも、関係者からすれば、大いに困った事態であったことでしょう。

でも、これらの否定されるべきことも、赤塚さんの社会に果たしたプラスや、また少年時代の苦しい異常体験を考慮するとき、その多くのものは、許されるべきものとも思われます。

赤塚さんは、博愛の人であり、本物の分かる人でした。彼の鑑識と援助により、タモリさんなどの芸能人が生まれたのは、周知の事実です。

また赤塚さんは笑いを究極まで追及し、また自ら実践しようとしました。そのためには、自己犠牲的に・・・あるいは他人犠牲的に、かなり「ありえないこと」もしています。それらの一つ一つは、本に書いてある真実でも、説明しがたいものです。たとえば、ホテルの宿泊客を驚かすために、真夜中、庭に素っ裸で飛び出し、肛門にローソクを入れ、火をつけて後ろ向きで歩いた・・・などは、バカバカしくも、ありえないことです。また漫画の編集者を驚かすために、バカボンのパパの性行為を書いた原稿を渡したり、編集者に編集長の頭を靴で殴らせたりまど・・・・信じられないことを、次々とやっております。仕事上でも、1ページに、大きく登場人物の顔だけを描いて会話させたり、登場人物がただトイレに行くだけのスロモーションの漫画を描いたり、話のスジが5ページ目→10ページ目→3ページ目などに、どんどん跳んでゆく漫画を描いたり・・・など、実験的な漫画をいろいろと発表しております。

でも、こういう馬鹿げた行為や信じられない行動も、赤塚さんなら、「これでいいのだ」と言えば、何となく許してしまえるのも、貴重なキャラクターと申せましょう。

ただ、赤塚さんは、根はとても真面目なところがございまして、そういう生真面目さを人々は許したとも言えるのかもしれません。

次回は、これもありえない話・・・・ペンネームを「赤塚不二夫」から「山田一郎」に変えた話を書いてみましょう(実際は⑭に書いてあります)。

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2009年4月19日 (日)

赤塚不二夫さんの「ハチャメチャがいいのだ」⑩~二人の妻の仲がいいなんて!~

赤塚さんの結婚生活はとても面白いですね。

まず最初の結婚は、昭和36年・・・相手は登茂子さんという5歳下の女性。登茂子さんは赤塚さんのアシスタントをしていました。とても才能のある女性でした。男女はそれぞれ、26歳と21歳でした。

ところが、赤塚さんの仕事が猛烈に忙しくなると、とうとう登茂子さんは根を上げますー「私は独身みたい・・・」・・・で、嫌っていたわけでもないのに二人は、離婚します。結婚生活は12年間でした。

その後、赤塚さんは独身生活を謳歌します。多くの女性と深い関係になり、その数300人以上とも言われます。お酒もいっぱい飲んで、アルコール依存状態になります。

そこで、見かねた登茂子さん、離婚から14年後のある日、婚姻届を持って、赤塚さんを訪れます。「もう一度、結婚してください!・・・私とではなく、この人と!」・・・そう言って、14歳年下の真知子さんとの結婚を承諾させます。赤塚さん、真知子さんのことは知っていました。ですが、好きでも何でもなかったのです。しかし赤塚さん、なぜか元妻の登茂子さんの言うことを素直に聞いてしまいます。「ハイ」と素直にサインをしたのでした。赤塚さん、40歳を少し越えた頃のことでした。

その後、赤塚さんと真知子さんと登茂子さんは、不思議な三角関係になります・・・仲のいい三角関係です。3人は写真も一緒に撮ったりしています。いや、その後登茂子さんも再婚し、その相手は、赤塚さんのよく知っている大金持ち。結局、二組の夫婦は、毎年の正月を一緒に仲良く過ごすようになります。

・・・こういうのって、いかにも赤塚さんらしいですね・・・少年マガジンと少年サンデーの編集者を仲良くさせたり・・・二人の妻も仲がよくて、相談事を話し合ったりするなんて・・・

ちなみに、真知子さんは2006年に亡くなられ、登茂子さんと赤塚さんは2008年にお亡くなりになります。登茂子さんと赤塚さんの命日は、3日しか違いませんでした。登茂子さんが亡くなって3日後の82日に亡くなったのです(赤塚さんは6年間以上も植物人間状態だったのに)・・・こんなことって、ありですか?

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2009年4月17日 (金)

赤塚不二夫さんの「ハチャメチャがいいのだ」⑨~理想の人間関係とは?~

今日は、サブタイトルを付けさせていただきました。赤塚さんの考える・・・そして自ら実践もなさっていた「理想の人間関係とは?」・・・・これについて、今日はじっくり考えてみましょう。

皆様、赤塚さんの漫画では、いろいろな敵対関係が登場しますね。おそ松君とイヤミ・・・ブタ松親分とココロのボス・・・やんちゃなバカボンのパパと真面目なママ・・・ニャロメと目玉のつながった警官・・・・でも、そんな敵対関係も、どこか互いの心がつながっているんですね。ですから、どうしようもないケンカには発展しないし、敵同士の間なのに、その関係にユーモアが存在するんですね。

私が思うに、それが赤塚さんが目指した「人間関係の理想」なのではないか・・・こう考えます。

赤塚さんは、この関係を仕事でも、自分の家族でも実践しております。以下、信じられないことを二つ書きましょう。

実は赤塚さん、一番忙しいときは、週刊誌5本、月刊誌7本を持っておりました。これだけお忙しいと、関係者は事務所で寝泊りしております。その中には少年サンデー、少年マガジン、少年キングといった、ライバル関係の編集者もいるのです。ところが、朝起きて、たとえば「少年サンデーのアイデア会議」を開くのですが、これにはライバル社の少年マガジンや少年キングの編集者も参加するのです・・・この話を聞いて、私は何か心の中がほのぼのとしてきました・・・共存共栄・・・と言いますか、敵同士が互いに協力し合って、相手の幸せを考えている・・・いや、それを楽しんでいる・・・・これが本当の人生であり、本当の人間関係なのではないか?・・・そう思われてならないのです。

現時地球上には65億の人々がおりますね。宗教、イデオロギー、自然環境、資源の有無・・・いろいろ違います。中には、敵同士の関係も当然あります。でも、考えてみましょうよ!そういう敵同士の人間だって、心の中で考えていることは、皆一緒。「一生、何とか幸福に暮らしたい」ということであり、この気持ちは全員が持っているものです・・・とすれば、互いがいがみ合い、物取り合戦をするのではなく、「どうしたら、皆が幸福になれるか?」第一に考えた方がいいと思います。そしてまた、昔はいさ知らず、現在の地球の科学技術では十分、それが可能だと思います。偏狭なイデオロギーに屈することなく、それが案外、簡単に実現可能だと思うのです。

ある日、赤塚さんは、とんでもないことを思い立ちます。「少年マガジン連載の天才バカボンを、来週から少年サンデーに移そうじゃないか!」・・・別に、少年マガジンに恨みがあって、そういうことをするのではございません!・・・それが面白いから、そうするのです。あるいは、心の中では、「マガジンもサンデーも、同じ運命共同体・・・仲良くして欲しい」、そう思っていたのでしょう。そして、結果的に少年マガジン側もそれを了承します・・・・天才バカボンは少年サンデーに移ったのです!ふふふ、何とも愉快ですね。これが平和の基本なんでしょうね!・・・心のどこかで敵を許す気持ちがある。戦争までは絶対にいかない・・・・これが理想のライバル関係なのであり、それを実践なされた赤塚さんの勇気!

おそらくは、この勇気のバックボーンには、満州時代の地獄があったのでしょう。「最終的に日本人と中国人は仲良くしなければならない・・・そうしないと、自分たちの家族は生きてゆけない。近所の千葉さん一家は中国人に虐殺された」・・・そういう地獄を体験したとき、赤塚少年は、身をもって、この究極の平和哲学に気づいたのでありましょう。

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2009年4月15日 (水)

赤塚不二夫さんの「ハチャメチャがいいのだ」⑧

満州から引き揚げるとき、お父様はソ連に抑留されていますから、母子5人。子供は男の子2人、女の子2人。一番小さい子は、女の子(綾子)で、生後5ヶ月でした。

お母様の母乳は栄養状態が悪いので、あまり出ません・・・となると粉ミルクが頼りです。ところが、これは乗船のとき、当局に取り上げられてしまいます。不二夫少年は、妹のために、船の炊事場のおじさんに頼んで、重湯をもらいます。それを妹に食べさせます。しかし重湯に十分な栄養があるはずがありません。赤ん坊は日に日に衰弱してゆきます。

佐世保に着いたのが、昭和21年6月15日・・・その後収容所生活の後、お母様の実家、奈良県大和郡山に辿り着きます。しかし、妹の綾子は到着してすぐに、亡くなってしまいます。赤塚不二夫さんは、この妹の死を、涙ながらに「親孝行だった」と言います。なぜなら、その後、お母様は子供を育てるために働きに出るのですが、乳飲み子がいては、そういうことも難しくなるからです・・・この妹の死も、赤塚不二夫さんのその後の人生に大きな影響を与えたようです。極貧やストレスの中では、子供は案外簡単に死ぬものなのでございます。

話は変わりまして、アウシュビッツの収容所の話を少しだけ・・・

アウシュビッツ収容所で子供時代をすごした少年少女は「収容所時代の生活こそが正常」と思っています。皆が見ている前でトイレをし、人がドンドン死に、その死体を空き地に積み上げておく・・・そういう生活が正常と思っています。ですから、戦後、「私の知っている人間的なあたりまえの生活」が、異常と見えて仕様がありません。そういう人たちが、正常な社会生活を行えるはずがございません・・・・何を申したいかと言えば、子供の頃の体験と言いますのは、予想をはるかに超えて、大切なのであります。ですから私たちは、決して戦争などというものをしてはいけないということです。戦争は社会を地獄に突き落とします。しかし同時に、子供たちの一生まで台無しにします。そう。子供たちは、死ぬまで戦争のトラウマを背負って生きねばならない・・・ということなのでございます。それが赤塚不二夫さんの一生ではなかったかと、私は思うのです。

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2009年4月13日 (月)

赤塚不二夫さんの「ハチャメチャがいいのだ」⑦

赤塚さんが満州から引き揚げるとき、それはまた地獄でした。『これでいいのだ』には以下のようなことが書かれております。

「奉天駅から引揚者を乗せた汽車は、石炭を運ぶ無蓋貨車だった。行き先はコロ島で、そこから日本へ帰る船に乗るためだ。汽車は気まぐれに止まっては走った。無蓋貨車だからもちろんトイレなどはない。予告もなしに汽車が平原に止まると、みんなバラバラと貨車から飛び降り、大は大の場所を、小は小の場所をそれぞれ野っ原のなかに探して用を足した。女は男ほど簡単ではない。できるだけ人目につかぬ場所を探すうちに、汽車は突然、動き出したりするから大変だ。男なら大丈夫かもしれないが、遠くまで行ってしまった女では間に合わない人も出てくる。                                女が必死の形相で走り、叫ぶ。                                  「待ってー、止めてー!」                                      「あれは太田さんの奥さんだ!」                                   貨車の上でも一瞬、同情の声が上がるが、汽車はそんな者をいちいち待ってはいない。こうしてもどりそこねた女の人たちを、ぼくは何人も見た。あれだけ果てしもない大平原に取り残された彼女たちは、結局、心ならずも近くの農村で、中国人の夫と第二の人生をはじめるほかに生きる道は残されていなかったと思う」

・・・こういう記述を読むと、私は考えてしまう。もしも自分が女性ならと・・・。モンゴルの女性なら、乗り遅れることはないだろう。あらゆる人間は皆、排泄をして生きている・・・どうして、そういうものをことさら、隠す必要があろうか?・・・たとえば、日本へ帰ってから、「○○さんの奥さんは、汽車のすぐそばで小用を足していた」と言って、笑う男がいたら、その男は最も卑しい男の一人だろう。私は毎日メス犬を散歩させているが、もちろん彼女は大の姿を隠すなんてバカなことはしない・・・仮に私は満州でそのような姿を見たとしても、その女性に同情したり、勇気を称えたりこそすれ、揶揄することは死んでもしないだろう。このように考えると、人間とは哀しい生き物ですね。

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2009年4月11日 (土)

赤塚不二夫さんの「ハチャメチャがいいのだ」⑥

赤塚さんの本を読むとわかることは、この方が「分け隔てなく」、多くの人と付き合おうとしていたことでしょう。それはちょっと極端ですね。たとえば飲み屋で知り合った見知らぬ人を、平気で自分の家に泊めたりしています。また新宿のホームレスが何人も自宅に遊びに来たり・・・と言った記述にも出会います。飲み屋では、とにかくいろいろな人と話をしたようでございます。

でもこのような行為は、満州時代を振り返ると、非常に理解できますね。赤塚家の窓には、いつもピストルが置いてありました。それは、お父様が不在のときの護身用ばかりでなく、お母様が子供たちを殺し、自らも命を断つ道具でもありました。一家はそれほど危険な地帯に住んでいたのであり、そういう状況で必要なことは、「他民族との心の交流」です。お父様の職業である特務警察官と言いますのは、中国人に密告され、虐殺される危険性が、非常に大きなお仕事でした。しかし、お父様のモットーは「中国人から物をもらうな」あるいは「敵も見方も同じ人間じゃないか」・・・というものであり、であるがゆえに、いざというとき、中国人の助けがあり、命が助かった・・・という記述にたびたび出会います。実際に、お父様の首には2千円の懸賞金がかかっていたわけです。もしも村人が一人でも密告すれば、すぐに命を失っていたことでしょう。

こういう状況の中、不二夫少年は、「人間関係がイデオロギーや国家主義よりも大きな意味を持つこと」、これを悟ったのでしょうか。

たとえば『これでいいのだ』(NHK出版)には、こんな記述があります。

「次の任地に移動するときだった。ぼくたちはトラックに乗り、荷台には銃を構えた満系“の人たちが乗って走っていた。左は切り立った山で右は千尋の谷。ゲリラ側にとっては格好の襲撃場所である。この地点にさしかかった車に断崖の上から手榴弾を投げるのだ。現に、谷底には吹き飛ばされて転げ落ちた日本軍のトラックが何台も腹を見せていた。

突然、山の上に人影が現れた。ぼくたちには一瞬、緊張がみなぎる。だが、その人影は、サッと中止の合図らしい動作をした。おかげでトラックは危険地帯を通過することができた。あの状況の正確な意味は幼いぼくにはわからない。ただ極めて危険な窮地に落ち込んだあの状況で、一行のピンチを救ったのは、日ごろのおやじの言動が関係していたのではないかという気がする」

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2009年4月10日 (金)

赤塚不二夫さんの「ハチャメチャがいいのだ」⑤

赤塚さんは、戦後の満州で一年ほど過ごしておられます。そのときも多くの地獄を体験しています。たとえば、お母様がソ連兵にレイプされそうになりました。ソ連兵の中には囚人兵もたくさんいたとも言われます。それらの兵士はとんでもないことをしたのでございます。そのときの様子は、以下のように書かれています。

「満州に進駐したソ連兵の中には、程度の低い者が少なくなかった。古今東西、侵略者が上品であったためしはない。もちろん日本人もそうだ。(中略)                   略奪した時計を10個も腕につけ、(時計が)止まると次から次へと捨てていった。そして町で女を見かければ、すぐ暴行に及んだ。そのため多くの日本女性は、丸坊主になって男のふりをした。(中略)                                        ある晩のことだ。我が家の入り口のドアが突然ガタガタ鳴った。昼間、かあちゃんが外階段を登ってこのドアの中に消えたのを、見られていたのだ。ソ連兵3人が夜を待って侵入しようとしたのだった。ドアの内側は、ぼくが作った手製の錠で簡単に開かないようにはしてあった。だがそんなものは、女に飢えた狼たちを防ぐ何の役にも立たなかった。   「ソ連だ!」(中略)                                          錠をぶちちぎって中に入ると、彼らはやにわに母ちゃんに襲い掛かった」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

結局、この後、不二夫少年は外に飛び出し、ソ連兵の治安係(憲兵)に出て助けを求め、何とか事なきを得たのですが、そういう体験も、「道徳がどうのこうの」というレベルの問題ではありません。「今すぐに母親を助ける」という「今」の問題なのであり、こういう体験を何度も経験すると、人生観にも影響を与え、赤塚さんの漫画が「筋立てよりも、とにかく今の瞬間の笑い」を目指している・・・ということが、わかるような気がします。

なお「道徳がどうの・・・」というのは、もちろん私が道徳教育を否定しているのではございません。道徳教育はとても大切なことです。ただし、現実の世界をうまく処理するためには、ユーモアとかとっさの機転などが、道徳以上に役立つことがあるということを申し上げたいのでございます。

なお、このとき不二夫少年は、乱暴をするソ連兵に対して、ロシア語で「オーチン、ハラショー!」と叫びます。でもこの「オーチン、ハラショー」は「おおいに結構!」という意味です。不二夫少年は逆の意味で使っていたわけです。あくまでもあとになればの話ですが、これも笑えますね・・・・実は乱暴するソ連兵も、心の中で笑ったかもしれません。その笑いはソ連兵の欲情や暴力を、多少は弱めたかもしれません。                    

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2009年4月 9日 (木)

赤塚不二夫さんの「ハチャメチャがいいのだ」④

満州において、赤塚不二夫少年が体験した地獄については、自著『これでいいのだ』(NHK出版)でいろいろ書かれております。

「目の前ですさまじい騒動の光景が繰り広げられたのは8月16日(昭和20年)である。ぼくたちが住む消防署の官舎の隣は鉄西消防分署、その隣が憲兵隊。道路をはさんで藤倉電線と東洋タイヤの工場があった。その工場内にある軍需物資を狙って、数え切れないほどの中国人が殺到したのだ。無秩序の略奪は、中国人同士の目を覆う殺し合いに変わった。これに日本人の工事関係者と憲兵が加わって、三つ巴、四つ巴の地獄絵が出現したのである。                                                           「シュルシュルシュルッ」                                            衣擦れの音を思わせるのは、藤倉電線が作っていたパラシュートを運び出す音だ。その略奪者の頭上へ、塀の上からコンクリートの塊や石を投げ下ろす。            「ギャーッ」という悲鳴。                                      「パパーン」憲兵のピストルが略奪者を狙い撃つ。                       東洋タイヤの倉庫から持てるだけのサラシを抱えた略奪者は、それでも足りずに、胸から胴へかけてサラシを巻けるだけ巻いて逃げようとする。ピストルの弾がその胸を貫通する。巻けるだけ巻いたサラシが見る見る真紅に染まっていく・・・・・そういう光景をぼくは憲兵隊の馬小屋のかなかから息を殺して見ていた」

・・・このような光景を目撃した少年の魂は、その後、大人になってから、どうなるものなのか?・・・赤塚不二夫という人間、およびその生き方を考えるとき、「あの男は、生前バカをやっていた。350人の女とセックスしたんだぜ」という見方の裏に、戦争がもたらしたもっと大きな負の遺産・・・そして、そこから生まれる、ときとして悲しく切ないエッセンスが見えてくるのではないでしょうか?

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2009年4月 7日 (火)

赤塚不二夫さんの「ハチャメチャがいいのだ」③

赤塚不二夫さんの生まれは満州熱河省。昭和10年9月14日生まれ。父・藤七、母・リヨの長男として満州国熱河省らん平県古北口古城裡22号において出生。お父様は特務警察官。この仕事は、いわゆる最前線で抗日ゲリラを捕まえる役目。頻繁に中国人に変装したりもするわけです。ですから、お父様は中国語がペラペラ。でも、危険がいっぱいの仕事でした。

お父様の首には2千円の懸賞金が賭けられ、実際、お隣の千葉さん一家は中国軍により、皆殺しにされ、家も全焼でした。不二夫少年は約10年、満州にいたのですが、その間、いろいろな地獄を見ております・・・もちろん、優しい中国人との触れ合いも経験しております。ですが、後の私たちが知っている赤塚不二夫のギャグの原点の半分は、地獄だったわけです。

・・・おそらく不二夫少年が無意識的に感じたことは、「私たち人間が一つの思想に支配されると、いかに怖い悪鬼に変わり・・・この世は容易に、地獄と化してしまうのだ」ということではないでしょうか?・・・その狭い思想の対極にあるものが、笑いなのでしょう。面白いことさえあれば、それでいいのだ・・・こういうバックボーンを、私は、赤塚不二夫さんの身体に感じてしまいます。

しかも、その笑いは、「すぐに笑えるもの」でないといけません。思わず噴出すようなものでないといけません。弾けるような笑い、爆発するようなユーモア・・・道徳?そんなものは糞食らえ!権威?そんなものは、全然大したもんじゃないよ!・・・・だって、8月15日を境に日本の権威なんてなくなったじゃないか!・・・そのようなものすごいアンチテーゼが笑いの中にあることを感じてしまいます。実際、生ぬるい道徳などは、現実の殺戮や引き上げ時の地獄や多発したロシア兵によるレイプ事件などを目の前にしたとき、何の役にも立たないことは明らかです。

いくつもの生首が杭の上に並べられている。綿の上に並んでいるのだが、綿は血をいっぱい吸い込んで暗赤色になっている・・・10歳にも満たない不二夫少年はそういう光景を見ていたのです。

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2009年4月 6日 (月)

赤塚不二夫さんの「ハチャメチャがいいのだ」②

赤塚不二夫さんの著作を拝見しますと、刺激的なことが、たくさんか書かれております。

たとえば不二夫少年は、戦後満州から一家で引き上げ、奈良県の大和郡山に住んでおりました。当時は小学6年生・・・でも、そのときにはもう、性的な初体験を済ませていたとのことです。なぜそのようなことになるかとも申せば、戦後アメリカの進駐軍が奈良にやってきまして、大人の女性たちが畑でアメリカ兵相手に売春行為しておりました。不二夫少年はそれを見ていたからだそうです。少年たちもマネをしたんですね。このような女性たちは、性行為の最中に、不二夫少年にガムをくれたりしたそうです。まさに、とんでもない時代だったんですね。不二夫少年は小学生でタバコも吸っていたわけですから、今の時代と比較するのが、そもそも間違いなのでしょう。

ところで、私はなぜ、このブログのタイトルを「ハチャメチャがいいのだ」にしたのでしょうか?もちろん「人生、メチャメチャにやればいい」という意図では全然ございません。そうではなく、「狭い型どおりの先入観で、物事を見ていたのでは、人生は絶対にわからないよ」と申し上げたいからでございます。人生がわからなければ失敗をし苦労をします。そして泣きを見ます。

そのことを如実に学ぶためには・・・・かつての私の拙ブログを少し覗いてみれば、ハタと合点のいくような気がいたしました。そこで、その一部を再掲させていただきたいと思います。

2009122日の拙ブログより・・・

タイトル「予想はつきません!」

「二年前の2007年に戻ってみます。そこで誰かが「二年後のアメリカの大統領は黒人だ」と言ったとしましょう。その人は大笑いされ、ひょっとして精神病者扱いされたかもしれません。

1889年に戻ってみます。そのとき誰かが「二年後、ソ連はなくなっているだろう」と言ったとします。その人は大笑いされ、評論家なら失格者の烙印を押されたことでしょう。

日本の政治だって同様です。1992年に「二年後、自民党と社会党が手を組んで、社会党の首相が誕生するだろう」なんて思うことは、100%絶対にありえないことだったのでございます。

つまり、歴史と言いますのは、しばしば「ありえない」または「絶対的にありえない」ことが起きているのでございまして、これを地ならしして、もっともらしく「あたかも、ありえたように説明する」のが歴史学者たちの仕事なのです。

これは芸能界やスポーツ界でもそうでございまして、昨年(2008)にご活躍なされたエドはるみさんとか世界のナベアツさんの登場などは、誰も予想できなかったことです。「おバカさんブーム」なども、まともな思考回路を持ってしては、絶対にありえないことですね。その他、競馬界の三浦皇成騎手や将棋界の里見香奈さんなどについても同じことが申せましょう。

若い人の中には、未来を悲観して自殺なさる方々も大勢いらっしゃいます。中年の方にも、鬱病の方が相当いらっしゃいます。また日本には、160万人のひきこもりの方たちもいらっしゃいます・・・こういう方のかなりの部分が、「未来を決めてかかっている」のではないでしょうか?「自分の人生には未来がない」とか。「自分の人生はもう終わった」とか。でもそれは大いなる間違いです。未来というものはわかりません。絶対にわかりません」

・・・・要するに、私の申したいことは「世の中はハチャメチャなものだ。だから、私たちは、心の中に、広い視野を持っていない限り、世の中のことは到底わからないよ。世の中わからないと、失敗するのは自分なんだ」ということを、赤塚さんの人生を通じて学びたいと思うのです。

どうやら次回以降も、ハチャメチャな内容になりそうでございます。

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2009年4月 4日 (土)

赤塚不二夫さんの「ハチャメチャがいいのだ」①

現在、漫画家の故・赤塚不二夫さんの人生を調べております。とてもハチャメチャな人生ですね。そして、そのハチャメチャさを、むしろ求めてらっしゃる人生なんですね。ただし、自滅とか・・・そういうのではなく(多少、自滅的なところもないわけではないですが)、創造的な明るい人生なんです。型破り・・・と言ってもいいでしょう。

『天才バカボン』は少年マガジン連載でしたが、突然ある日、少年サンデー連載に移した・・・とか、二人の奥さんの仲が良かったとか(先妻が後妻との結婚を勧めた)・・・こういうエピソードは、「普通の世間的基準ではありえない」ことであり、でも、ことさら、ひどくまずいことを起こしているわけでもありません。現在企業のM&Aやヘッドハント、またプロ野球のトレードやFAなどは、当たり前のことであり、これも何十年も前に、独断でやっているわけです。こういう点では、まさに天才でしたね。

かと申しましても、赤塚さんのすべてを肯定するのではなく、多少の批判もこめて、赤塚さんのハチャメチャ人生を、10回くらいの連載で振り返ってみたいと思います。宜しければ、おつきあいのほどを!

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2009年4月 2日 (木)

本当は、個人の力はすごい

今年2009年の春の選抜高校野球・・・ベスト4に東北勢が2校残っています。こんなこと、大会史上初めてのことだそうです。

それから数年前の北海道駒沢苫小牧高校!この高校の大活躍もすごかったですね。

いずれも共通点があります。そう。これらの東北・北海道勢は、プロ野球の楽天と日本ハムが、それぞれ仙台と札幌をフランチャイズにしてから強くなったのです。

それまでの成績は、全くひどいものでした。東北・北海道勢と言えば、仙台育英や東北高校(あとは遠い昔の青森三沢高校の活躍)などを除けば、ほとんどは一回戦敗退。私は北海道出身ですので、その惨状ははっきりと覚えております。

これは何を意味するかと申せば・・・現在、『実力不足』と思われている、世界中の地域も、あるいは差別されている人たちも、本当は潜在的な実力はあるのであり、ただ、それが出ていないだけだ・・と言えるのでしょう。状況が変われば、その力がすぐにでも出るのでしょう。

かつての明治維新。この時だって、薩摩長州の田舎侍たちが、日本の未来の礎を築き上げたのです。しかも彼らは30歳そこそこでした。

私は・・・そしてあなたも・・・本当は心の中には、ものすごい力が眠っているのでしょう・・・ただ、それをどうやって引き出すか?・・・ということだけなのでしょう。

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2009年4月 1日 (水)

夏目漱石は精神異常であったか?~一つの最終結論~

最初は10回程度で終えようと思いましたが、少々長くなりました。

もっと続けることもできますが、冗長に過ぎますので、一応今回でまとめを書いておきたいと思います。

シリーズのタイトルは「夏目漱石は精神異常だったか?」というものでしたが、答えはもうお分かりですね。このような答えになると思いますー「精神異常な行動は確かにあった。しかし、それは時期的にも対人的にも部分的なものであった」、これが今回のタイトルへの結論と申し上げていいでしょう。

漱石は誰にでも異常な行為を取ったというのではありませんでした。そうではなく、ある時期に家族など身近な方たちに対して異常な行為を取りました。しかも周期的に・・・というのが正しいと言えるのでしょう。

逆に申せば、対外的な夏目漱石は十二分にノーマルであり、またガンコではあるものの、しばしば多くに人々に優しい人でもあった・・・と申すことができるでしょう。

ただ、私がいつも思うことがあります。それは「夏目漱石の一生は、何点くらいか?」と申せば、私はそれほど高い評価は上げません。なぜなら、確かに圧倒的に高い文化的かつ学問的な業績を上げた方ではありますが、自分の身をきちんと守ることができず、重傷の胃潰瘍にかかり、また糖尿病にも関わらず、アイスクリームやジャムをよく舐めた・・・などという記述を読みますと、もっと自制できたのではないか・・・と思います。また『道草』などで、多くの実在の人への悪口を書いておりますが、これも小説が日本全国の人に読まれ、後世まで残ることを考えますと、こういうことを書いていいものか・・・少なくとも、私ならば、書かなかったと思います。

ただし、漱石の生い立ちや生活環境を考えますと、大いに同情をしたくなります。里子や養子に出された不安定な幼少時代。それから明治という時代は、日本が西洋文化を無理にでも取り入れなければならなかったという「文化侵略」を受けた時代です。こういう時代に生きるということは、漱石のような学者は選良意識を持たざるを得ず、と同時に・・・・貧弱に見える日本人である自分のことや、そしてまた漱石の場合は自分の生い立ちの精神的貧困さ・・そういうものを思うとき、ある種どうしようもないジレンマを、いろいろな方面に感じていたのではないでしょうか?

このジレンマは家庭に対しても感じていたことでしょう。「自分は親に愛されなかった。なのに、なぜ自分は子供たちのために一生懸命働くの?」・・・そういう矛盾も感じたことでしょう。

漱石は経済の方面では、かなり責任感が強い方でした。小説家になるときなどは、経済的な方面の交渉を、朝日新聞と綿密に行っております。こういうところは、実に立派であると思います。

小説を書くことは、ある種、身を削って売るという意味合いもあります。そういう意味では「戦死」・・・こういう気持ちも少しはいたします。

いずれにせよ、普通の人では精神的に参ってしまうところを、相当ガンコな方ではあったものの、名声を遺すほどに、49歳の人生を終えたということは、最後に、「ご苦労様」と、心より慰労の言葉を申し上げたい気持ちがいたします。

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